オルテガの 「大衆の反逆」
アニメの「PSYCHO-PASS」16話『地獄の門』にて、
画像は4巻のジャケで、この話が収録されてるのは6巻です。
槇島 「正義は議論の種になるが、力は非常にはっきりしている。そのため人は正義に力を与えることができなかった」
狡噛「悪いが、俺は誰かがパスカルを引用したら、用心すべきだとかなり前に学んでいる」
槇島「ははは、そうくると思ってたよ、オルテガだな。もしも君がパスカルを引用したら、やっぱりボクも同じ言葉を返しただろう」
というやりとりが有りました。
あんな場面で引用合戦するかよというツッコミはさておき。
パスカルの方はパンセにそんなようなフレーズあったなぁという感じだったのですが、オルテガの方はモヤモヤした感じでした。
引用元は「大衆の反逆」ではないかとの事で、
大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)
を昨日読み終えたのですが、パスカルのパの字すらどう思い返しても出て来ません…。
おっかしいな~、と思ってググってみたら原文を書き写しておられると思われる方のブログを発見。
http://btbb.hatenablog.com/entry/2013/07/17/234225
以下は上記のサイトより引用
引用終わり(太字の強調は私によるものです)
この方の引用されてる本は、多分こちらで出版社も訳者も異なります。
上記の引用の最下行に恐らくページ数と思われる40という数字がありますが、ちくま学芸文庫版の方でその前後のページをいくら見ても同様の文章が見当たりません…。
2段落下の引用文ですが、
ちくま学芸文庫版の方は、本文が↑とほぼ同じ内容の文章が11ページから始まります。この前には白紙のページと目次しかありません。
それと、引用されている方のブログを見ていくとこの後にも引用文が掲載されていますが、57ページを11ページとして換算したページ数と思われる辺りに、ほぼ同じ文章が出てきます。
あくまでも推測ですが、ちくま学芸文庫版の方は何らかの事情か改訂などで、出だしの部分50ページ前後の文章がひょっとしたら無いのかなと考えています。
白水社版の方も入手して比較したい所です。
2013/08/15 追記
上記のブログ主のBtbBさんにリンクを張りたいので許可を頂きたく、コメントしていたのですが、白水社版の方には「フランス人のための序文」というものが収録されているという情報とリンクの許可のお返事を頂けました。
目次の分も差し引くと恐らく20~30頁分位の量かなと思われますが、ちくま学芸文庫版には収録されていません。
狡噛慎也のセリフの引用元は見つかりませんでしたが、名著だと思います。自分が「選ばれた少数者」になる資質があるとは到底思えませんが、少しでもそれに近づけるよう高い目標を設定し自分に厳しく生きていきたいものです。
画像は4巻のジャケで、この話が収録されてるのは6巻です。
槇島 「正義は議論の種になるが、力は非常にはっきりしている。そのため人は正義に力を与えることができなかった」
狡噛「悪いが、俺は誰かがパスカルを引用したら、用心すべきだとかなり前に学んでいる」
槇島「ははは、そうくると思ってたよ、オルテガだな。もしも君がパスカルを引用したら、やっぱりボクも同じ言葉を返しただろう」
というやりとりが有りました。
あんな場面で引用合戦するかよというツッコミはさておき。
パスカルの方はパンセにそんなようなフレーズあったなぁという感じだったのですが、オルテガの方はモヤモヤした感じでした。
引用元は「大衆の反逆」ではないかとの事で、
大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)
を昨日読み終えたのですが、パスカルのパの字すらどう思い返しても出て来ません…。
おっかしいな~、と思ってググってみたら原文を書き写しておられると思われる方のブログを発見。
http://btbb.hatenablog.com/entry/2013/07/17/234225
以下は上記のサイトより引用
人は時代が直面する問題に取り組む義務がある。これには疑問の余地がない。そして私は生涯を通してこの義務を果たして来た。私はつねに時代の弁護に回ってきた。しかし近ごろよく人びとが口にすることの一つに――「時流」――ということがある。これは明晰なる知的活動を犠牲にしても、すべての人が厳密な意味における sensu stricto 政治に参加しなければならないということである。もちろん、他に何もなすべきことを持たない連中がそう言っているのである。しかも彼らは、パスカルから「愚鈍化」 abêtissement という至上命令を引用して、その立場の強化を図っている。(end39)しかし私は、誰かがパスカルを引用したら用心すべきだということをかなり前に学んでいる。それは、精神衛生の基本的な注意なのである。
全面的な政治運動、つまりすべての物事や、すべての人びとを政治の内に吸収してしまうことは、この本で述べている大衆の反逆という現象とまったく同じことである。もっか反逆している大衆は、宗教心や認識力をまったく喪失してしまった。大衆が自己の内面に持つことができるのは、ただ政治だけである。つまり、知識や宗教や知恵 sagesse――要するに、その実質から人間の精神の中心を占めることのできる唯一のものにとって変わろうとするあの途方もない、熱狂的で、我を忘れた政治だけなのである。政治は人を孤独と親密さから解放する。それゆえ、全面的な政治運動の布教は、人を社会化するのに用いられる一つの技巧である。
(オルテガ/桑名一博訳『大衆の反逆』白水社、40; 「厳密な意味における」に強調)
引用終わり(太字の強調は私によるものです)
この方の引用されてる本は、多分こちらで出版社も訳者も異なります。
上記の引用の最下行に恐らくページ数と思われる40という数字がありますが、ちくま学芸文庫版の方でその前後のページをいくら見ても同様の文章が見当たりません…。
2段落下の引用文ですが、
ことの善し悪しはともかく、今日のヨーロッパの社会生活において最も重要な一つの事実がある。それは、大衆が完全な社会的権力の座に上ったことである。大衆はその本質上、自分自身の存在を指導することもできなければ、また指導すべきでもあんく、いわんや社会を支配するなどおよびもつかないことである。したがってこの事実は、ヨーロッパが今や民族、国家、文化の直面しうる最大の危機に見舞われていることを意味している。こうした危機は、歴史上すでに一度ならず襲来しており、その様相や、それがひきおこす結果は周知のところで、その名称も知られている。つまりそれは、大衆の反逆と呼ばれている。
(同上、57)
ちくま学芸文庫版の方は、本文が↑とほぼ同じ内容の文章が11ページから始まります。この前には白紙のページと目次しかありません。
それと、引用されている方のブログを見ていくとこの後にも引用文が掲載されていますが、57ページを11ページとして換算したページ数と思われる辺りに、ほぼ同じ文章が出てきます。
あくまでも推測ですが、ちくま学芸文庫版の方は何らかの事情か改訂などで、出だしの部分50ページ前後の文章がひょっとしたら無いのかなと考えています。
白水社版の方も入手して比較したい所です。
2013/08/15 追記
上記のブログ主のBtbBさんにリンクを張りたいので許可を頂きたく、コメントしていたのですが、白水社版の方には「フランス人のための序文」というものが収録されているという情報とリンクの許可のお返事を頂けました。
目次の分も差し引くと恐らく20~30頁分位の量かなと思われますが、ちくま学芸文庫版には収録されていません。
狡噛慎也のセリフの引用元は見つかりませんでしたが、名著だと思います。自分が「選ばれた少数者」になる資質があるとは到底思えませんが、少しでもそれに近づけるよう高い目標を設定し自分に厳しく生きていきたいものです。
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